佐伯祐三  
  ★ 中之島に市立美術館が出来てから初めて訪問した。
天王寺の美術館で昔に観た「佐伯祐三」では「郵便配達夫」
の記憶しかなかった。
今回は彼の生涯の作品を観て、かなり印象が変わった。
色々な人の影響を受けているようだが
「ヴラマンク」「マチス」の様な荒々しいタッチ
の強い印象を受ける。
★下記はWEBページの内容を借用した。         
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2023年4月15 (土)ー 6月25 (日)
会場:大阪中之島美術館

およそ100年前、「大阪」、「東京」、「パリ」の3つの街に生き、
短くも鮮烈な生涯を終えた画家、
佐伯祐三(1898− 1928)。
1924年に初めてパリに渡ってからわずか4年余りの本格的画業の中で、
都市の風景を題材とする独自の様式に達しました。
特に、一時帰国を挟んだ後の2回目の渡仏期に到達した、
繊細で踊るような線描による一連のパリ風景は、画家の代名詞とされ、
その比類ない個性は今でも多くの人を魅了し続けています。
私たちは、佐伯の絵画に向き合う時、風景に対峙する画家の眼、
筆を走らせる画家の身体を強く想起させられます。
そして、描かれた街並みの中に、画家の内面や深い精神性を感じ取ります。
それゆえ作品はしばしば、画家自身を映したもの―自画像にたとえられます。
本展では、佐伯が描いた「大阪」「東京」「パリ」の3つの街に注目し、
画家が自らの表現を獲得する過程に迫ります。

佐伯祐三(さえき・ゆうぞう)
1898(明治31)年 ? 1928(昭和3)年
大阪府西成郡中津村(現・大阪市北区中津)の光徳寺に生まれる。
東京美術学校西洋画科卒業後の1923年、
パリに向けて日本を出港。
翌年初夏、里見勝蔵の紹介で訪問したフォーヴィスムの巨匠ヴラマンクに「アカデミック!」と
一喝され、作風を模索する。
やがてユトリロに触発され、壁の物質館を厚塗りの絵具で表現したパリの下町風景の連作を展開し、
1925年のサロン・ドートンヌで入選を果たす。
1926年に一時帰国し、下落合の風景や大阪での滞船の連作を制作するも、日本の風景に飽き足らず、
1927年8月にシベリア鉄道経由で再渡仏。
パリの街並みを精力的に描き、
広告の文字を題材とする繊細で跳ねるような線の表現で、独自の画境に達する。
1928年2月に荻須高徳、山口長男らと近郊のヴィリエ=シュル=モラン村へ写生旅行。
3月、パリへ戻ってから体調が悪化し、8月16日、パリ郊外の精神病院で30歳の若さで亡くなった。
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10」
佐伯祐三《立てる自画像》              
1924年
大阪中之島美術館蔵






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第1章 大阪、東京
<柱>と坂の日本ー下落合風景と滞船(1926 − 1927年)

2年間のパリ滞在を経て、佐伯は1926年3月に日本に戻ります。それから約1年半の一時帰国時代、
集中的に取り組んだ画題が「下落合風景」と「滞船」でした。
パリとは異なる風景に向き合う中で、画家は電柱や帆柱など、中空に伸びる線を見出していきます。
佐伯が日本の風景の何を切り取り、どう描いたか。
「下落合風景」と「滞船」のシリーズを充実した点数で紹介し、独自の視点と表現に迫ります。

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17」                                           
佐伯祐三《下落合風景》
1926年頃
和歌山県立近代美術館蔵








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34」汽船:

                         











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37」
佐伯祐三《滞船》
1926年頃
ENEOS株式会社蔵









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第2章 パリ
*壁のパリ(1925年)

1924年のヴラマンクとの衝撃の出会い以降、自らの作風の模索を続けた佐伯は、
1925年、パリの下町の店先を題材に、
重厚な石壁の質感を厚塗りの絵具で表現する独自の作風に到達しました。
《壁》《コルドヌリ(靴屋)》などの
この時期の代表作をはじめ、圧倒的な存在感を放つ壁面の数々、
その美しく複雑なマチエールをご覧いただきます。

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80」
佐伯祐三《コルドヌリ(靴屋)》           
1925年
石橋財団アーティゾン美術館蔵










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*線のパリ(1927年)

佐伯祐三といえば想起される、画面を跳躍する線描の表現は、一時帰国時代の模索を経て、
2回目の渡仏直後の1927年秋から初冬に展開されました。
落葉樹の枝を描いた繊細な線、連なるリズムとなって画面を埋め尽くすポスターの文字、
さらには縦に引き伸ばされた人物や自らのサインまで、
線描でパリの街角を描き出す佐伯芸術の到達点を、
《ガス灯と広告》や「カフェ・レストラン」の連作を含む代表作でたどります。

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104」
佐伯祐三《ガス灯と広告》              
1927年
東京国立近代美術館蔵








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111」広告:ヴェルダン:
                   












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112」
佐伯祐三《レストラン(オテル・デュ・マルシェ)》              
1927年
大阪中之島美術館蔵









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第3章 ヴィリエ=シュル=モラン

1928年2月、佐伯はパリから電車で1時間ほどの小さな村、
ヴィリエ=シェル=モランに滞在し、新たな造形を模索しました。
村の中心である教会堂をはじめ、至るところが題材となり、
画面には力強く太い線と構築的な構図が復活します。
寒さの厳しい中での制作は佐伯の体力を確実に奪っていき、
最後のまとまった制作となりました。
まさに命を削りながら創り上げた珠玉の作品群といえます。
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128」モランの寺:           










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138」
佐伯祐三《煉瓦焼》                    
1928年
大阪中之島美術館蔵









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エピローグ

1928年3月、佐伯が病臥する前に描いた、
絶筆に近い作品《郵便配達夫》《郵便配達夫(半身)》《ロシアの少女》
《黄色いレストラン》《扉》をすべて展示します。3月末に喀血した佐伯は、
その後筆をとることができず、8月16日に亡くなりました。

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140」
佐伯祐三《郵便配達夫》             
1928年
大阪中之島美術館蔵












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142」
黄色いレストラン:           
黄色いレストラン(1928年)
おそらく、佐伯、最後の作品とされる「黄色いレストラン」。
黒く塗りつぶされた扉の向こう側が印象的。
絶筆ということもあり、どうしても「死」というものを意識せざるを得ませんね。
それにしても佐伯最後の作品とは思えない存在感と力強さ。
この絵を見るにつけ、あまりにも早い彼の死が残念でなりません。







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143」                   

扉(1928年)
強固で重さを感じさせる扉ですね。
良く見ると左側のドアが少し開いています。
心理テストじみていますが(笑)、このドアがこれから開けられるのか、
それとも閉ざされるのか、それともそのままなのか。
ドアの向こうには暗闇。とにかくも、すぐ近くに迫っている死に直面しつつ、
それでも絵を描いていく強い意志というものをこの扉に感じるのですが。




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